長崎に生きる

岡野雄一さん編



「ママケッコンしようねぇ」

「ぜったいダメ!!ぜったいムリ!!ボクが先にハタチになるんだからママと結婚するのはボク!!そうだよねママ!!」



また始まった。もう出発しないとならないのに。

みたいな表情を向けながらも、あと数年も続かないであろう、男の子の母冥利で心はほかほかしている。



〝子供たちにお土産何にしよう。〟

ペコロスの母に会いに行くの作者、岡野雄一さんに会うために乗り込んだ高速バスの中で大村湾を眺めながら、今朝の幸福なやり取りを思い出していた。



目指すは長崎歴史文化博物館 喫茶店『銀嶺』



「僕の密着ならば、ペコロスの岡野さん、はなちゃんのみそ汁の安武さんにも会ってみてはいかがでしょう?」



阿久根氏からのアドバイスがきっかけで、岡野さんにインタビューをさせていただけることになった。

そしたら、人生の宝物のような話をたくさん受け取った。

埋められなかったピースがここでも見つかった。

わたしの心だけに残すにはあまりにももったいないので、ここで紹介していきたい。




「あんなしっかり者のかーちゃんがこげんボケていく。」

当時は〝認知症〟という言葉こそなかったが、少しずつ変わっていく母の姿が心配でもありおかしくもあった。

紆余曲折を経て岡野さんは故郷に戻り、長崎のタウン誌の編集者になった。

夜の長崎、大人向けのタウン誌。

表紙の絵をかいたり、長崎の歴史を載せたり、広告をもらいながら好き勝手に出来た本だった。

その中で1ページ、社長の許可を得て8コマ漫画を描くことになった。

内容は、編集後記だったりこぼれ話だったり。

その間には父が亡くなったり、母の認知症が始まったりした。

8コマ漫画に、そんな母の姿を描いた。


離れて暮らす弟を安心させたかった。


弟を心配させないように、8コマ目は必ず笑いに持っていく。

本当にまずそうな母の姿は描かなかった。




「漫画家とかは、諦めなきゃいけない年齢になっていましたからね。プロどうのはあり得ない。ただ、描き続けました。」



気が付くと、雑誌に載せてきた漫画がたまっていた。

そんな時に知り合いのデザイナーから、一冊にまとめないかと声がかかった。



一冊目、そして二冊目。

なんだか、えらく売れているらしい…。そんなことを感じていると、あっと言う間にいろんなことが進んでいった。




「今で言うガラケーに電話がありましてね。〝プロデューサーですけど、映画化しませんか?〟って。かみさんも周りも、〝典型的な詐欺の一例だ〟っていってね。笑」



その時のプロデューサーが熱心だった。

長崎まで岡野さんに会いに来た。

監督に会い、そして阿久根さんに会い、8コマ漫画のペコロスが映画になっていく。



「その時がちょうど61、62歳でしたね。それでも、プロどうのなんて気持ちはありませんでした。今でこそ、税金払う肩書がそうなりましたけどね。(笑)」

くすぐったいような笑顔で、照れくさそうにそう話した。



こうして岡野さんと阿久根氏の付き合いは始まった。

映画化するにあたり、決められた時間におさめて作品にするには、それが本望ではなくとも削らないとならない部分がどうしても出てきてしまう。

岡野さんには前述したとおり弟がいるが、映画では一人っ子の設定になっている。



「弟が怒りましてね。(笑)

阿久根君にお話しところ、シンプルにして120分に収めるには…。と、丁寧な説明がありました。

それからは、弟もすぐに応援に回りましたよ。」


「でね、六本木だったのかな、初めて弟と阿久根君が会った時、

阿久根君、弟から離れて座ってね」と、懐かしそうに思い出すように、笑いながら話してくれた。

その時の姿が何となく頭に浮かんで、こちらも笑顔になった。




「阿久根君とは本当に色々な話をしているんです。

阿久根君はね、いち言えば三倍になって返ってくるから。

漫画で言うところの〝…〟の、テンテンテンが耐えられないのかもしれないね。(笑)」

岡野さんは終始穏やかで優しい口調だ。

事前に見させていただいた写真から想像していた岡野さんではなかった。もっとずっと内面がまあるい。



「ずっと生きてきて面白いなって感じるのは、

〝人生ってなんて皮肉なんだろう。〟って思うときが、ある時から始まるんですよね。

車って、ナビがあろうが無かろうが、一番最初に行くときって、探しながら行くから遠く感じるじゃないですか。

で、全く同じ道を帰る時って、すごく近く感じるんですよ。

なんかね、人生もそんな感じがするんですよね。

どこかで引き返してる感じ。出発点に戻っているような。

生まれて、ずっとやってきて、どっかでひっくり返って、亡くなるってことは、同じところに戻る気がするんですよ。

どっかから、それが早くなってくる。

年取ると、時間がすごく早くなってきて。同じような理屈なんじゃないかって。


それを感じるのは、ひっくり返ったあとなんですよね。

だから、ハゲてても、シワができていても、年を取ることの醍醐味みたいな気がします。

おふくろがよく言っていた、お前も年を取ればわかるっていうのが、あぁこのことだったのかなって。

若いときは若い時でいいし、年取ったら年取ったで別の面白さがありますよ。

生きてさえいれば、若い時とは違った味わいがある。

若い人に、伝えたいですね。」



お母さんが口癖のように言っていたという、

「とにかく生きていることが大切。生きとけばどげんでもなる。」というセリフ。

いまは息子の岡野さんの言葉になっている。



「60歳過ぎてから、最高ですよ。最高。

70歳過ぎたら、僻みとか色んな気持ちはどうでもよくなるんですよね」



いいな、すごくいい。


気づいたら最高。じゃなくて。

岡野さんが自分でつかみ取った最高。

〝つかみ取った〟だなんて思っていないだろう。けどそれは、岡野さんが歩んできた確かな道だ。





長崎に帰ってからは、故郷長崎と、そして両親との、離れていた20年のやり直しの時間になった。

ペコロスいうと、母と息子という印象かもしれないが、父親の存在も大きい。


「親父の事、大すきでしたからね。」



〝人を許すことができる人〟岡野さんと話していてそう感じた。



ある時、通りすがりに近所の人から言われた。

「あんた、お父さんを悪者みたいに書いてるけど、あの頃の父親っていうのはみんなそうだったんだよ。」


そういう時代だった。


無論、岡野さんは父親を悪い人だなんて思っていない。

長崎の場合はまず兵隊としてとらわれ、帰ってから原爆で被爆して。それでも家族を養わないとと皆が必死だった。

飲まざるを得なかった。


「僕は、見た目は母ですけど。中身は父によく似ています。

普通の家だったんじゃないかな。

よくある普通の親子。」



この言葉が本当に衝撃だった。

そうか。

そうか。

勝手に特別になんて感じないほうがいい。

そう思えた。

親は親で一生懸命。時代もあったんだ。

どんな気持ちで育ててくれたか。



「子どもながらに、父の弱さをわかっていましたから。」



続いて今度は自分が恥ずかしくなった。

戦争のない時代に生まれたのに、足りないものなど何もないのに、

両親への感謝が足りない事に気づかされた。

当たり前に大きくなったわけじゃない。愛されて、大切にされて、大きくなった。

みんなそれぞれ、自分の人生を生きている。

そのどれもを、そのまま受け入れている。



愛だなぁ。



「若い人たちにはね、辛いことがあっても、とにかく生きていてほしいですね。」

岡野さんはそう、繰り返した。



赤ちゃんにも子どもにも、一時預かりや保育園や幼稚園がある。

自分でお世話をする人もいる。

色んな人がいて、いろんな選択肢がある。

年齢や立場が変わった時にだって、いろんな選択肢があっていい。

わたしはそう思う。

みんながそれぞれ、生きやすいのがいい。



息子たちへのお土産は、ステンドグラス。

息子の待つ家へ帰ろう。

関東に戻ったら、おいしい手土産を持って、すぐに両親にも会いに行こう。もっともっと一緒にいられる時間を大事にしよう。

そういうあたたかい気持ちに包まれた。

岡野雄一

漫画家、編集者

『ペコロスの母に会いに行く』で2013年日本漫画家協会賞受賞


ペコロスの玉手箱』自費出版、2009年

『ペコロスの陽だまりの時間』西日本新聞社、2012年

『ペコロスの母の思い出』しんぶん赤旗

『ペコロスの母の玉手箱』朝日新聞出版、2014年

『みつえばあちゃんとぼく』西日本新聞社、2015年

『ペコロスのいつか母ちゃんにありがとう:介護げなげな話』小学館、2016年

『ペコロスの母の贈り物』朝日新聞出版、2016年

『ペコロスの母の忘れ物』朝日新聞出版、2018年

アニメ 『ペコロスの母に会いに行く』



The Life of AKUNE TOMOAKI

脚本家・演出家・映画監督など、マルチな才能で活躍する阿久根知昭氏に密着。 https://www.facebook.com/tomoaki.akune

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