WORKS


2000年にエフエム福岡「土曜ラジオ館」で脚本の執筆を開始して以降、

2005年、同局「ラジオ1人芝居 最後の初年兵」ギャラクシー賞ラジオ部門優秀賞

2007年「月のしらべと陽のひびき」第3回日本文化大賞ラジオ部門準グランプリ

2009年「聞こえない声~有罪と無罪~」ギャラクシー賞ラジオ部門大賞、文化芸術祭ラジオ部門優秀賞、日本民間放送連盟賞ラジオ教養部門優秀賞

(ライトスタッフギルド立ち上げ後、所属作家の監修として)

2012年「孫文と九州人~絆よ悠久なれ~」ギャラクシー賞ラジオ部門奨励賞

2014年「鉄の河童」民間放送連盟賞ラジオエンターテイメント番組優秀賞、文化庁芸術祭ラジオ部門大賞を受賞した。




現在は2016年から続く、RKB毎日放送の連続ラジオドラマ「家族びより~シアワセの高取家」で監修を務めている。

密着から一年となる今回「シアワセの高取家」の収録現場に同行した。 




新型コロナウィルス感染症対策として、これまでとは異なる収録方法がとられるようになった。

収録含め、声優を務めるアナウンサー陣とは別室での作業になる。

直接顔が見えなくても、声から表情はわかるので問題はないのだと阿久根氏は話した。



同ラジオドラマは月曜から金曜日までの放送で各日一話完結、全編博多弁での放送。

脚本をライトスタッフギルドの作家たちが行い、阿久根氏が最終的な確認を行う。

このラジオドラマの魅力であり特徴は、先にも述べたがRKBのアナウンサーたちが声優を務めていることにもある。



この日は、収録・仮読みの前に、声優を務めるアナウンサーと個別で本読みをする姿があった。

限られた時間の中で二週間分の本読みを進めていた。時には博多弁の指導も行われる。



一本三分のドラマ。



仮読みが三分、セリフやシーンの意図を説明するためのダメ出しが三分、収録三分。

一週間五話、二週間分の収録。



「皆さん、現場の仕事を終えて帰れる状況になってから収録するんですよね。

早く帰してあげたいじゃないですか。なので、どんどんどんどんOKを出していきますよね。二時間で二週分を撮るというのが目指すところです。

なので、OKラインをどこにするのかちゃんと設定しています。出来るまでやる。みたいなことは・・。役者さんとは違うので…。」



そう話す阿久根氏に、

「苦労かけているんです。アナウンサーでやりたいって言ったばっかりに」

と、古賀和子プロデューサーが笑顔で教えてくれた。



とは言え、いざ収録が始まるとプロのアナウンサー陣の技術はものすごかった。テンポ良くラリーされる言葉は圧巻で、阿久根氏を追いながらもアナウンサー陣の声に心を奪われていた。

阿久根氏も、真剣かつ楽しそうな眼差しで見守っている。




「作家が三分で物語をやっつけなきゃいけない良質な現場だと思っています。

アナウンサーさんたちも、多分ですけど、何かを得ようとして一緒に作っている現場じゃないでしょうかね。」

三分のダメ出し

そこに、印象的なやり取りがあった。それも、一度ではなく。

仮読みのあとで、構成・キュー出しのスタッフの松村さんから改善案が提案されたときに、阿久根氏はNOを言うことがなかったのだ。

「そうですね、それでいきましょう。」

台本に変更した言葉が書き込まれていく。




唯一阿久根氏が提案に対して意図の説明として意見を返したのは、〝人のことコレアレ言うな〟という一文でのことだった。

「聞き手は〝アレコレ〟を言い間違えたと誤解してしまうかもしれないので〝アレコレ〟に戻すのはどうでしょう。」構成の松村さんから提案があった。



その表現の裏には、そこに至るまでに〝コレ・アレ〟の順で書かれた一文があり、

わかる人にわかったらおもしろいぞ という阿久根氏のしかけのような意図があり、それを伝えた。


次の瞬間、

「それでいきましょう。」の阿久根氏の声。

えー!!いいの!!

とてもいい意味で拍子抜けした。



阿久根氏は終始柔軟で、ねらいがあれば一応その説明はするが、押し通そうとはしない。

双方がリスナーにとってのベストを考えて、一瞬のうちに判断している。




「彼女松村さんはギルドのメンバーなんですよね。

演出がもっともっと出来るようになると期待していますし、スキルアップとかしていってくれるのが嬉しいです。

どうしても譲れない時があればこちらの意図を伝えますけど、そうじゃなかったらね。OKを出して進められるといいですよね。」




あ、そうか。

はじめに言っていたことと何もぶれていない。

OKラインも定めている。



自分を出そうとするよりも若い芽を育て、調和で進めていく姿はさすがだなぁと感じた。チームでつくり出している。

「早く演出しなきゃいけないっていうのが難しいんですよね。」




柔軟な阿久根氏がどうしても譲れない表現とはどのようなものなのだろう…。

その瞬間に立ち会えるかどうかはわからないが、どのような表現の時で、そこにはどのような思いがあるのか。

知りたくなった。



縛りなく自由に演出できるときの阿久根氏は、とにかく楽しそうで現場には笑い声が飛び交う。



言葉から、頭の中で想像が繰り広げられ賑やかであっという間の三分だった。

それぞれの三分を経て一つの作品が出来上がる。




「アナウンサーさんたちの仕事は、正しく伝えることでしょうけど、局はそれだけを求めているわけではありませんもんね。

視聴者やリスナーが、その局で見たり聴いたりしたいと感じさせる表現が求められていると思います。

そういうの背負わされている方々ですよね。

なので、役を演じることによって、多様な表現が身についたりしてくれるといいな、自分の色合いを今よりもっと濃くしてもらえるといいなあと思うんです。

名前も覚えられたり、その人の表現を好きになってくれたりすると、仕事現場は増えますもんね。

なので、表現で提案があれば僕は受け入れますし、アイデアもどんどん出してくれればいいと思っています。

そうすれば、どの現場でも破綻しない選択が出来るようになるし、自分の表現を創造できると考えています。」



福岡にいる間にアナウンサー陣の皆さんの普段の仕事での声を、番組で観て、それから関東に帰ろう。わたし自身も自然とそう感じた。



リスナーにそう思わせられるのもまた、自分から人が育つことがうれしいと思える阿久根氏だからこその演出の賜物なのだろう。




相手に花を持たせる人

今回はラジオドラマ収録の現場から、阿久根氏のそんな姿を受け取った。




RKB毎日放送 連続ラジオドラマ ~シアワセの高取家~

安武信吾さん編



午後二時。

大名町教会で医療従事者への感謝と励ましのための鐘がなる。

その場所が、はなちゃんのみそ汁の原作者でありはなちゃんの父、安武信吾さんとの待ち合わせの場所だった。




「阿久根さんについてねぇ。。。

阿久根さんはね、一言聞いたら二倍になって返ってきますからね。(笑)」




聞き覚えのあるセリフ

二倍か三倍か。

豊富な話題の持ち主だ。




「会話の中に出てきたワードに反応して、次々に話題が別の方向に展開していく。

そして、相手に話す隙を与えない。

良く言えば、物知りで天才肌。

悪く言えば、自己中のおしゃべりおじさん。ひとつの話題について深く掘り下げたいタイプの僕とはちょっと対局なんですよね。」





そんな始まりのインタビュー。

何をどう聞いたらいいのか。また何も決めて来られなかった。

今回はどんなインタビューになるのだろう。




「俺をその気にさせたのは彼らだもんなぁ。

映画化とか、もともとはそんな気全然なかったし、他からきてた話は全部断ってたのに。

それは、意味のあることだと思ったから僕も前向きになれたんだろうと思うし。」




「『私のママってこんなに素敵な人だったんだ』。はなちゃんがそう感じてくれる映画を僕に作らせてください。」



大手映画会社からの打診もあった中で、安武さんの心を動かしたのは、焼肉屋で偶然知り合ったフリーの映画プロデューサー村岡克彦さんの言葉だった。

村岡さんと阿久根氏は〝ペコロス〟でタッグを組んだ仲。

阿久根氏は〝はなちゃん〟映画化に向けて、監督を引き受けた。

その後、安武さんは頻繁に阿久根氏を自宅に呼び出した。



安武さんの著書に描かれているのは、はなちゃんと、はなちゃんのママである千恵さんの人生そのもの。

大切に扱ってほしいし大切に扱いたい。

わたしの見てきた阿久根氏ならばきっとそう思う。



阿久根さんとの付き合いが始まり、安武さんは彼の人柄を知った。

そして、あることに気づいた。



「この人は、家族を大切にする人だ」

任せてみよう、そう思った。



2人の住まいは、頻繁に行き来できる距離にある。

「いつでも会って話ができるという安心感があった。

取材というより雑談。公式見解よりも本音を聞き出さなくちゃいけない。

阿久根さん、僕の思い出話聞きながら、泣いてたもん。創作活動って、案外、この積み重ねが大事なんですよ。」




阿久根氏でなければならなかった理由が、そこにあったのだろう。




「厚かましくていい。」

知って、描かなくてもいい。

いい作品にするために、描かなくてもいいから、もっと、もっと、もっと、自分たちが生きたあの時間についてを阿久根さんには知ってもらいたい。

そう話してくれた。





「嬉しかったですもんね。映画館でね、観てる親子のちっちゃい子供がね、スクリーンに向かって 〝はなちゃんがんばれー!〟 って言うんばい。

たまらんですよね。本当嬉しいですよね。

それを聞いた、はなもうれしいですもんね。映画ってすごいですよ。

僕の本を小学校低学年の子は、じっとは読まないですよね。

それが伝わるのは映画なんですよ。

だから、良かったって思いました。つくって。

なんで昔はあんなに拒んでたんだろうねぇ(笑)

学校では教えてくれない、なかなかない教材ですよね。映画にはその力がありますよ。」




原作があり、実話がベースにある作品。

はなちゃんにとって、母を知ることができる作品。



まだはなちゃんは、安武さんの著書も、生前千恵さんが綴ってきたブログも読むことが出来ないのだという。

「やっぱりね、お母さんの生の声がね…。読めないって言います。」




安武さん自身も、千恵さんが亡くなってすぐはブログを見ることができなかった。

ブログは閉鎖しようとしていた。

そんな時に、懇意にしている助産師の先生に言われた。




「あなたが書きなさい。あなたが続けなさい。

あのブログは千恵さんが、がん患者やその家族に向けて書いていた。

それぞれがいろいろな気持ちを抱えて読んでいた。

実際に亡くなってしまった後、その人たちに向けて、今すぐには元気になれなくても、あなたとはなちゃんが元気になっていく姿を書いていきなさい。」




その言葉は安武さんの心に響いた。

だから続けた。




「はじめはもちろん、そんな気持ちにはなれなかったですよ。

それでも2日に一回くらいは書いてみてね。

しばらくして、ふと千恵の後に自分が書いてきたブログを読み返してみると、なるほどなぁと思ったもんね。

自分とはなが元気になっていく姿を、〝こうやって元気になっていけるんだ〟っていうのを、同じような状況にいる人がその人と重ね合わせて読んでいってくれるんだと思うから。

亡くなった後も書く意味はあるのかな。って思いましたね。」




時々考えることがある。

傷ついた人は、いつまでも悲しい空気をまとわないとならないのだろうか。

〝乗り越えてね〟 と言いつつ、笑顔でいる瞬間を見るとまるで不謹慎かのようなまなざしを向けてくるのは、それは気のせいなのだろうか。

不幸なままでいないといけないのだろうか。

誰のための人生なのだろう。




グリーフ(悲嘆)を抱えたままでも、人は幸せになれるのかもしれない。

グリーフを受容した人にしか分からない幸せ。

そこにたどり着くまでの過程にどれほどの価値があるのか。

幸せになっていいし、乗り越えていい。

いまの笑顔の奥を想像する優しさが人にはあると思う。

どんな葛藤や痛みを伴ったのかは本人にしかわからない。

わかってもらわなくてもいいのかもしれない。

ただただ、自分もみんなも、幸せになっていい。





そんな日々のリアル。

それが、千恵さんの後を引き継いだ安武さんのブログ「早寝早起き玄米生活」にはあり、、2月10日に全国の書店にて発売された安武さんの新しい著書「はなちゃんのみそ汁 青春篇」(文藝春秋)に描かれている。




はなちゃんのみそ汁の映画化のなかで、安武氏は一か所だけ、ここだけはどうしてもと、演出を変えてもらった。

安武さんは、千恵さんと出会う前に離婚を経験している。



「前の妻と別れた原因の描き方が、一方的に感じたんですよね。

〝あれはおれだってわるいんだから。〟

その一言だけでいいから入れてください。そうお願いしました。」



そうだったのか。。



やさしいですね。そう言うと、

「だってそうだもん」そう返ってきた。



〝だってそうだもん〟

ほとんどひとりごとのように言ったその言葉はとても、とても安武さんだった。




結果、阿久根監督は、安武さんのその想いを尊重した。




作品としてのクオリティもあるが、原作があり、ノンフィクション。

その時間を実際に生きた人がいる。これからも生きる続ける人がいる。

それぞれが想いをもって出来上がる。




安武さんとはなちゃん、そして千恵さんとの最後の時間。

言葉でなんて伝えられないくらいに大変だった。

けどそれが、〝本当の家族になれた時間〟。

「こんなにきついのは、千恵の事が好きだったから。それに気づいたら、悲しみ自体が素敵なものに変わっていきますよね。」




千恵さんとの時間が、宝物。








安武さんは、パワフルで、熱量が大きい。

インタビューの仕方もわからず手探り状態のわたしは、記者時代の安武さんについて聞いてみた。

「断られてからが仕事でしょう!」

断られたとしたら、その場でひいてしまうわたしには一瞬まぶしかったが、ギフトのような言葉が続いた。




「遠慮はいらないでしょう。

だって、本当にいいものを作るなら、それくらいの覚悟が必要でしょ。

取材する側の意図がきちんと伝われば、相手から、後で〝ありがとうございました〟って言ってもらえるはずだから。

阿久根さんも遠慮がちなんですよ。

相手の時間を奪うことに罪悪感があるのか、しつこさがない。

もっと、聞いて、聞いて、聞きまくって。もういい加減にしろって言われるぐらい聞かなきゃ。そこだけは、友人として、仕事仲間として、びしっと言いたい」




あ、そうか。

そうか。

厚かましいんでも、遠慮がないのでもなくて。

相手がそう思えるくらいのものを作るという覚悟なんだ。無駄にしないっていう、本気なんだ。安武さんは、そうやってやってきたのだ。

相手に対してもちゃんと責任を持とうとしている。

だからこそ、もっと厚かましくきてほしいと阿久根氏に望むのだろう。

阿久根さんの想いも、安武さんの想いも。どちらもとてもよくわかる。




「いいんじゃない?〝こんな取材をしようって思っていたけど、全然違くなってしまった〟っていうのも。そういう雑談の中に、本音とかヒントとか、あるから。」




人生もそうなのかもしれないなぁ

思い通りになんていかないけれど、どれもきっと無駄じゃない。





いま、人生の夕方にいるのだと安武さんは言っていた。

がむしゃらに働いてきた。仕事で、出来ませんとは絶対言わなかった。

きつい生き方をしていた。

ようやく、わがままに生きてもいいんじゃないかって思えた。



「だからいま、すごく楽しい。」



そう話す安武さんの〝いま〟の宝物は、はなちゃんがパパの健康を気遣いプレゼントしてくれたスマートウォッチ。

毎朝のジョギングで使っているそうだ。

今日一番の笑顔を見れた。

好きな色も、気が付いたらいつの間にか娘の好きな水色になっていたという安武さんの人生の時刻の彩も、きっと味わい深い豊かなものなのだろう。







長崎で、福岡で、インタビューのはずがこんなにも素敵な人生のヒントをもらえた。

周りの人や、出会う人にとても恵まれている。素敵な人であふれている。

わたしの人生捨てたもんじゃないなぁ

そう思えた。

〝本当の家族〟

安武さんが築いた、カタチ。




三者三様、かっこいい時刻を刻んでいた。




監修   安武信吾









【安武信吾】

元新聞記者、ノンフィクションライター、映画プロデューサー。映像作家、ミュージシャン、フォトグラファー

著書 はなちゃんのみそ汁(文藝春秋)

    はなちゃんのみそ汁  青春篇 父と娘の「いのちのうた」(文藝春秋)

ドキュメンタリー映画「弁当の日 『めんどくさい』は幸せへの近道」(2021年)

妻、千恵さんのブログ『早寝早起き玄米生活~がんとムスメと、時々、旦那~』

ツイッター twitter.com/yasutake_s






後記

掲載前に本章を阿久根氏に確認いただいたところ、

『安武さんは人が楽しんでいることをうれしがる方です。 

悲しんでいる人を なんとか楽しんでもらおうとエネルギーを使う方です。そういう事もどこかに入れていただけると』

との言葉が届いた。


さて、この阿久根氏の言葉をどう入れようか と考えてはみたものの、

そのまま記すのがいいな と、この形とすることにした。



昔からの仲間も、

大人になってからの仲間も、どちらもとてもいいなぁ。




岡野雄一さん編



「ママケッコンしようねぇ」

「ぜったいダメ!!ぜったいムリ!!ボクが先にハタチになるんだからママと結婚するのはボク!!そうだよねママ!!」



また始まった。もう出発しないとならないのに。

みたいな表情を向けながらも、あと数年も続かないであろう、男の子の母冥利で心はほかほかしている。



〝子供たちにお土産何にしよう。〟

ペコロスの母に会いに行くの作者、岡野雄一さんに会うために乗り込んだ高速バスの中で大村湾を眺めながら、今朝の幸福なやり取りを思い出していた。



目指すは長崎歴史文化博物館 喫茶店『銀嶺』



「僕の密着ならば、ペコロスの岡野さん、はなちゃんのみそ汁の安武さんにも会ってみてはいかがでしょう?」



阿久根氏からのアドバイスがきっかけで、岡野さんにインタビューをさせていただけることになった。

そしたら、人生の宝物のような話をたくさん受け取った。

埋められなかったピースがここでも見つかった。

わたしの心だけに残すにはあまりにももったいないので、ここで紹介していきたい。




「あんなしっかり者のかーちゃんがこげんボケていく。」

当時は〝認知症〟という言葉こそなかったが、少しずつ変わっていく母の姿が心配でもありおかしくもあった。

紆余曲折を経て岡野さんは故郷に戻り、長崎のタウン誌の編集者になった。

夜の長崎、大人向けのタウン誌。

表紙の絵をかいたり、長崎の歴史を載せたり、広告をもらいながら好き勝手に出来た本だった。

その中で1ページ、社長の許可を得て8コマ漫画を描くことになった。

内容は、編集後記だったりこぼれ話だったり。

その間には父が亡くなったり、母の認知症が始まったりした。

8コマ漫画に、そんな母の姿を描いた。


離れて暮らす弟を安心させたかった。


弟を心配させないように、8コマ目は必ず笑いに持っていく。

本当にまずそうな母の姿は描かなかった。




「漫画家とかは、諦めなきゃいけない年齢になっていましたからね。プロどうのはあり得ない。ただ、描き続けました。」



気が付くと、雑誌に載せてきた漫画がたまっていた。

そんな時に知り合いのデザイナーから、一冊にまとめないかと声がかかった。



一冊目、そして二冊目。

なんだか、えらく売れているらしい…。そんなことを感じていると、あっと言う間にいろんなことが進んでいった。




「今で言うガラケーに電話がありましてね。〝プロデューサーですけど、映画化しませんか?〟って。かみさんも周りも、〝典型的な詐欺の一例だ〟っていってね。笑」



その時のプロデューサーが熱心だった。

長崎まで岡野さんに会いに来た。

監督に会い、そして阿久根さんに会い、8コマ漫画のペコロスが映画になっていく。



「その時がちょうど61、62歳でしたね。それでも、プロどうのなんて気持ちはありませんでした。今でこそ、税金払う肩書がそうなりましたけどね。(笑)」

くすぐったいような笑顔で、照れくさそうにそう話した。



こうして岡野さんと阿久根氏の付き合いは始まった。

映画化するにあたり、決められた時間におさめて作品にするには、それが本望ではなくとも削らないとならない部分がどうしても出てきてしまう。

岡野さんには前述したとおり弟がいるが、映画では一人っ子の設定になっている。



「弟が怒りましてね。(笑)

阿久根君にお話しところ、シンプルにして120分に収めるには…。と、丁寧な説明がありました。

それからは、弟もすぐに応援に回りましたよ。」


「でね、六本木だったのかな、初めて弟と阿久根君が会った時、

阿久根君、弟から離れて座ってね」と、懐かしそうに思い出すように、笑いながら話してくれた。

その時の姿が何となく頭に浮かんで、こちらも笑顔になった。




「阿久根君とは本当に色々な話をしているんです。

阿久根君はね、いち言えば三倍になって返ってくるから。

漫画で言うところの〝…〟の、テンテンテンが耐えられないのかもしれないね。(笑)」

岡野さんは終始穏やかで優しい口調だ。

事前に見させていただいた写真から想像していた岡野さんではなかった。もっとずっと内面がまあるい。



「ずっと生きてきて面白いなって感じるのは、

〝人生ってなんて皮肉なんだろう。〟って思うときが、ある時から始まるんですよね。

車って、ナビがあろうが無かろうが、一番最初に行くときって、探しながら行くから遠く感じるじゃないですか。

で、全く同じ道を帰る時って、すごく近く感じるんですよ。

なんかね、人生もそんな感じがするんですよね。

どこかで引き返してる感じ。出発点に戻っているような。

生まれて、ずっとやってきて、どっかでひっくり返って、亡くなるってことは、同じところに戻る気がするんですよ。

どっかから、それが早くなってくる。

年取ると、時間がすごく早くなってきて。同じような理屈なんじゃないかって。


それを感じるのは、ひっくり返ったあとなんですよね。

だから、ハゲてても、シワができていても、年を取ることの醍醐味みたいな気がします。

おふくろがよく言っていた、お前も年を取ればわかるっていうのが、あぁこのことだったのかなって。

若いときは若い時でいいし、年取ったら年取ったで別の面白さがありますよ。

生きてさえいれば、若い時とは違った味わいがある。

若い人に、伝えたいですね。」



お母さんが口癖のように言っていたという、

「とにかく生きていることが大切。生きとけばどげんでもなる。」というセリフ。

いまは息子の岡野さんの言葉になっている。



「60歳過ぎてから、最高ですよ。最高。

70歳過ぎたら、僻みとか色んな気持ちはどうでもよくなるんですよね」



いいな、すごくいい。


気づいたら最高。じゃなくて。

岡野さんが自分でつかみ取った最高。

〝つかみ取った〟だなんて思っていないだろう。けどそれは、岡野さんが歩んできた確かな道だ。





長崎に帰ってからは、故郷長崎と、そして両親との、離れていた20年のやり直しの時間になった。

ペコロスいうと、母と息子という印象かもしれないが、父親の存在も大きい。


「親父の事、大すきでしたからね。」



〝人を許すことができる人〟岡野さんと話していてそう感じた。



ある時、通りすがりに近所の人から言われた。

「あんた、お父さんを悪者みたいに書いてるけど、あの頃の父親っていうのはみんなそうだったんだよ。」


そういう時代だった。


無論、岡野さんは父親を悪い人だなんて思っていない。

長崎の場合はまず兵隊としてとらわれ、帰ってから原爆で被爆して。それでも家族を養わないとと皆が必死だった。

飲まざるを得なかった。


「僕は、見た目は母ですけど。中身は父によく似ています。

普通の家だったんじゃないかな。

よくある普通の親子。」



この言葉が本当に衝撃だった。

そうか。

そうか。

勝手に特別になんて感じないほうがいい。

そう思えた。

親は親で一生懸命。時代もあったんだ。

どんな気持ちで育ててくれたか。



「子どもながらに、父の弱さをわかっていましたから。」



続いて今度は自分が恥ずかしくなった。

戦争のない時代に生まれたのに、足りないものなど何もないのに、

両親への感謝が足りない事に気づかされた。

当たり前に大きくなったわけじゃない。愛されて、大切にされて、大きくなった。

みんなそれぞれ、自分の人生を生きている。

そのどれもを、そのまま受け入れている。



愛だなぁ。



「若い人たちにはね、辛いことがあっても、とにかく生きていてほしいですね。」

岡野さんはそう、繰り返した。



赤ちゃんにも子どもにも、一時預かりや保育園や幼稚園がある。

自分でお世話をする人もいる。

色んな人がいて、いろんな選択肢がある。

年齢や立場が変わった時にだって、いろんな選択肢があっていい。

わたしはそう思う。

みんながそれぞれ、生きやすいのがいい。



息子たちへのお土産は、ステンドグラス。

息子の待つ家へ帰ろう。

関東に戻ったら、おいしい手土産を持って、すぐに両親にも会いに行こう。もっともっと一緒にいられる時間を大事にしよう。

そういうあたたかい気持ちに包まれた。

岡野雄一

漫画家、編集者

『ペコロスの母に会いに行く』で2013年日本漫画家協会賞受賞


ペコロスの玉手箱』自費出版、2009年

『ペコロスの陽だまりの時間』西日本新聞社、2012年

『ペコロスの母の思い出』しんぶん赤旗

『ペコロスの母の玉手箱』朝日新聞出版、2014年

『みつえばあちゃんとぼく』西日本新聞社、2015年

『ペコロスのいつか母ちゃんにありがとう:介護げなげな話』小学館、2016年

『ペコロスの母の贈り物』朝日新聞出版、2016年

『ペコロスの母の忘れ物』朝日新聞出版、2018年

アニメ 『ペコロスの母に会いに行く』



『出来る範囲で死ぬほど頑張る』

         —―—2019.03.26 Facebook


前章でも記した「大上下知有之」

阿久根氏の理想とするリーダー像。




「人にダメ出しするのって、これが難しいんですよねぇ」

難しいと言いつつもその表情は明るい。

以前の密着で講師としての姿から見た〝ダメ出し〟は、わたしから見たら人格者そのものだった。

明るいし、嫌味がない。

それが阿久根知昭という人間性なのだろう。




少し困った顔をして言った、阿久根氏のある言葉が印象的だった。

「過失は咎めません。けど、今のままは一生苦労しますよ。苦しみながら追い付いてください。とは思いますよねぇ」




もしも〝ずる〟 をして何かを得たとしたら、きっと本人はそのことを誰よりもわかっている。

怒られたり注意された時、そこにあまりいい道ではない逃げ道をつくりだしてしまう事もあるかもしれない。

〝だって〟とか言い訳といった類の…。

阿久根氏のそれは、怒られるより、見放されるより、響く。

阿久根氏に感じる北風と太陽手法。




わが子に対する自分にも感じるものがある。

子どもの失敗なんて、わたしを困らせようと思ってしているわけではない。

まだこの世に生まれ数年しか経っていない。

勝手にこちらが困ったり、困るという感情を選んだだけだ。

それなのに咄嗟に感情を出してしまうことがある。



感情をぶつけて悲しい気持ちや不安にさせたいのではなく、〝長い目で見ていつかしないようになること〟がゴールにあるのなら、理由と、次から気をつけようね。の、それだけでいい。

だって。

ただそれだけのことなのだから。




出来ていないなぁ

自分だって、ひとつひとつ時間をかけて出来るようになってきた。

今だって成長していないところが山ほどあるにも拘らず、一体全体どの口が言っていたのだろうかと感じた。




〝ダメ出し〟でもない〝伝え方〟も出来ていない自覚のあるわたしには、阿久根氏の背中があまりに大きい。

脚本家として紡ぎ出すセリフや、演出家、講師としての姿勢・伝え方。

阿久根氏はどのように身に着けてきたのだろう。

経験から…?

本や映画、誰かの言葉から?





「人物を描いている中で気づくことがありますよね。

物語の中で学びを得ています。

物語の中で人間を動かしながら

疑似体験しながら気づいていく。」



冷静な視点から見ることができるのだという。

目からうろこだった。

そうやって気づきを得てきたのか。

自分で書くことで見えてくる。

虚構の世界に浸るのでもなく、しっかりと現実の世界を生きながら学びとする。





〝どんな辛い経験も、誰かにとっての光になるのならいい。〟

そう思える人だからこそのひらめきだったのかもしれないな。そんな風に感じた。

人にダメ出しをする言い方ひとつをとってみてもそうだが、阿久根氏には、痛みを抱えた人に寄り添う強さがあった。

実際、同じようなことを役者から言われたのだという。



「監督には、弱者に対しての優しい目線がある」



勝者には厳しいですけどねと阿久根氏は笑った。





傷ついたことの無い人なんていない。

傷つかなくていいような傷を抱える人もいる。

知っていて損なことはないと思えること。自分の経験が誰かにとって、乗り越えるために光になるのならダイヤモンドだって思えること。




自身の持つ傷に関しても、それをどうしていくか自分で選べる。

経験や傷への向き合い方って一つではないし、みんな違う。




時間をかけて治る傷もある。

身体の一部になって付き合っていく傷もある。

瘡蓋になって、はがしてしまっていつまでも治らない傷もある。

瘡蓋をはがそうとしてくる人に出会うこともある。

深い傷跡が残ることもある。

同じところに何度もつく傷もある。





同じ経験であっても、乗り越えていける人と、ずっとそれに縛られてしまう人の違いって何だろう。

もちろん、向き合い方同様、理由も一つだけではなく、それぞれに様々な出来事が作用しているだろう。

わたしは親になるまで後者だった。

今ならわかる。きっと、その方が楽だったからだ。

言い訳があることを選んでいた。

けど。そんなのつまらない。阿久根氏の強さを知り、そう感じられた。

つまらないし、そんな生き方をする母親の姿を子どもに見せたく無い。

周りが認めてくれるから幸せな親子なのでもない。自分たちが、ただ共に生きているだけでいま幸せな親子だ。

自分のためになら変われなくても、子どものためになら変われる。

〝こうなってしまったらどうしよう〟ではなくて、

〝そうならないように導いていく〟

未熟なりに、歩みを進めよう。






『出来る範囲で死ぬほど頑張る』

葛藤しながらも自分の軸で歩みを進める阿久根氏の姿。





阿久根氏は目の前のことに向き合う中で、経験を、出来事を、希望に変えてきた。

紙の上で人間を動かさずとも、阿久根氏ならば希望に変える術を身に着けただろう。




「僕はフロントマンではないし、プレイヤーでもありません。

求められたときにいる存在であれたらいいんですよね。」


阿久根氏は、こんな人がいるのかと思うと嬉しくなるような人だ。深みがあるのに軽やか。

ふと、わが子のように感じられる瞬間まである。

不思議な人だなぁ。

サービス精神も旺盛。根っからのエンターテイナーで、優しい人なのだろう。

こういう表情欲しいでしょう? といった具合に、カメラマンの求めそうな表情を作ってくれる瞬間がある。

ありがたくその船に乗り、撮らせていただいているが、一年を超えるこの密着の中で、そうではないリアルでの阿久根氏の姿を捉えることも楽しみのひとつになっている。

そのままが撮りたい。

そのままでいて、まるごと魅力的なのだ。




優しくて、あたたかい。




はじめに作品から感じた阿久根氏への印象は、実際の阿久根氏の姿そのものだった。そこに至る過程は想像と違ったかもしれないが、だからこそ光になった。

乗り越えて、希望に変えてしまう。




阿久根氏を知る人たちから見た〝阿久根知昭の姿〟

次章では仲間たちのフィルターを通した阿久根氏の姿を見つけたい。


『「大上下知有之」はなかなか難しい

意識されず、ただぼんやりと上にいる存在

何をやってもその人の力だと認識されないけれど、

その組織は最高の仕事をしている

組織の中でそんな存在になろうとしてもう何年・・・

グチを言わず過失を咎めず、やった仕事の成果は自分よりも下にいる者の手柄にする。

これってすごく難しい

(中略)

そんなこんなで

個人では弱い作家のためにユニオンを作ったんですけれどもいざ作ってみると、すごく難しい

「自分のやったことはちゃんと自分の手柄にして」と言わなければならない。

そこでは「大上下知有之」は難しい』


   ―――2019.3.23 Facebookより


「自分を大きく見せるためのエネルギーは使いたくありませんね。」


阿久根氏が代表を務める作家集団「ライトスタッフギルド」

元は作家の権利を守りたいという思いから立ち上げた。


阿久根氏からは〝自分を前面に出そう。〟といったものを感じない。

実際、〝ギルドのためになるならやります。〟仕事を引き受ける時もそんなスタンスなのだという。



自分の作品をどんどん出していくという欲がないのだ。

自分の作品へのエネルギーだけでなく、人を育てることに力を入れたい。

自分から学んだ人が花咲いていくことがうれしい。


そんなことを感じているのだという。



〝傷つく組織〟

阿久根氏はギルドをそう呼んだ。


傷つく組織。どのような思いからギルドをそう呼ぶのか。




阿久根氏から発せられたのは、ダイヤモンドの原石というワードだった。

美しい輝きを放つダイヤモンドは、初めから輝いていたわけではない。

原石を磨くことで輝きだす。

ダイヤモンドの原石は、磨かなければ輝きを放つことはない。

同じくらいの硬度のダイヤモンドで磨かれることで輝きを増していくのだと、そう話した。



あなたがダイヤモンドの原石ならば、同じくらいの実力のダイヤモンドと磨きあって、そこでやっと輝きはじめる。

狭い世界にいてほしくないのだという。

そこにいたら傷がつかない。

傷ついて磨かなければ、ダイヤモンドの輝きは放てない。

自分を守ってくれる人たちの中から飛び出して、玉砕してきてほしい。

広い世界に出て行って、苦労する。

その経験があるのかないのかでも全然違う。




こいつには叶わないとか、絶望に落ちてもいい。

四方八方から傷つけられて初めて輝く。

傷ついてきてほしい。

その傷は無駄にはならない。

自分のもとで学ぶ役者たちにも思うし、ギルドの作家たちにもそう感じるのだという。



「自分がやりたいことを見つけるために傷つくことは大事ですよね。他で使える傷はつけていいんじゃないでしょうか。」


君も傷ついておいで。それは、終わりではなく、そこから始まるものもあるから。

そういう阿久根氏の想いがあるのだろう。

傷ついて磨きあって成長してほしい。


だから、ギルドは傷つく組織。



阿久根氏自身、自分の経験や傷を、作品を通して誰かにとっての光に変えてきているのだろうな、そんなことを感じた。

〝傷〟という言葉自体の意味までもポジティブな印象に変えることができる。

傷ついてきたことを、経験を、ダイヤモンド。そう思えるのって、すごいなぁ。

思わず言葉に出してしまった。




「自分が傷ついたことが、誰かにとっての光になるのならそれでいいんですよねぇ。僕は何かの原石とかじゃなく、ビー玉ですけどね。」

少し照れくさそうに続けた。

「ビー玉だって、小さく傷つけばすりガラスになって、鈍く光りますよ。 

僕はそれでいいかな。スターになれないし大きなものにはならなくていい。

ダイヤの中に居たら気づかれなくても、

誰もが体験する光。

鈍い光が落ち着くって言ってくれる人のために光れるんです。」



自分が自分のままでいて受け入れられるほうが、

無理をした自分が受け入れられるよりも、ずっといい。

自分を知って、そこから始める。

自分を大きく見せない。



阿久根氏は自分の人生を生きている。

わたしは親になり、子どもたちに、

傷付かずにいてほしい。そう感じてしまう時もある。

だけど。

傷つかないことよりも、傷ついても、道はまだあることを忘れないでほしいなぁ。そう思える心が生まれてきた。

失敗したり、間違えたり傷ついたり傷つけたり。

生きていたら色々ある。

でも、全部大丈夫。

そうやって生きてきて、輝いている人たちがちゃんといる。



阿久根氏を取材していると、心の中のもやが晴れていく感覚になる。

阿久根氏に向き合う中で、自分自身にも向き合っているのかもしれない。自分の心にある痛みのようなものに向き合うのって途方もなくしんどい。

けれど。

そうすることが、いま子育てでつまずいているわたしには必要なのだと、素直にそう感じる。

自分のつまずきを子供たちに残したくない。

そう思うと、向き合うことができるし、向き合わないととなる。

阿久根氏から受け取る光

阿久根氏は、経験をどのように光に変えてきたのだろう。



そこには、きっとまた、希望がある。

芝居ができる人が欲しい。

演技がうまい人じゃなくて

演じる技術はどうでもよくて、人が金出したくなる芝居ができる人を求めています。

芝の上に居て見ている人たちに向けて、表現を発信できる人がいるの。

(中略)

金払ってまで見たいと思える[芝居]が欲しいのです。

人に「上手ね」と言われるより「感動した」と言われる芝居ができる人が欲しい。

―――2020.9.14 Facebookより

http://www.facebook.com/tomoaki.akune




阿久根氏は脚本家、演出家、映画監督としてだけではなく役者の育成にも力を注いでいる。



自分の演出を、脚本を、超えてほしい。

役者が良い本に出会う確率なんて低い、と冗談っぽく笑った。



良い本との出会いを待つよりも、出来ることがある。

阿久根氏もまた、理想とする役者との出会いを待つだけではなく、育てようとしているのだ。



「客はセリフをきっちり聞きたいわけではないんです。芝居を感じたいんですよね。」


セリフは芝居の上にのっかったものであり、伝えたいことのすべてが台本になっているわけではないのだという。

一行におさめられたセリフは、本当はもっと長いものであったかもしれない。

言葉の削られた部分、その一行の奥にあるものを芝居で表現してもらいたい。

書いてある以上のことを表現して役者の力になる。



他の人にできることは出来て当たり前。

それプラスαあなたには何ができますか?

役者にそれを問い掛けている。




今回は講師としての阿久根知昭氏に密着した。

ある日のワークショップ、阿久根氏が演技指導をする中でもっともこだわっていたのは裏芝居の表現だった。  


本読みを進める中で、心の奥底にある思いを芝居でいかに伝えるか、言葉の強弱や、セリフを落とす位置からくる高低。喋りの緩急と間の置き方、などのポイントから役者たちに説いた。

たとえば『だからお前は』というこのセリフ。

語頭に力を入れた場合には〝怒っているけど怒りを抑えようとしている表現〟になり、

語尾を消す言い方をすることで〝うんざりしている表現〟になるのだという。



本音を隠そうとするセリフであれば、台本の活字をそのまま読んだのでは伝わらない。

確かにそうだ。芝居を観ていて、あぁ!本音じゃないのになぁ と、もどかしく感じられるのは、役者の芝居ありきだ。



「名台詞だからって、そこに圧なんてかけなくてもいいんです。いいセリフはその必要がないですからね。」



重要なセリフほどその前にくる言葉が実は大事で、まず注目を集め、そのあとに本当に伝えたいことを持ってきたりするのだと脚本家目線でも説いていた。

圧を抜いたほうが残るときもあるのだという。



本読みでの表現をいくつかのポイントから説くのと同時に、〝なぜか心に残る声〟 と聞いたらどのような声をイメージするだろうか?そう、役者たちに問い掛けた。


〝なぜか心に残る声・・。〟持って生まれたものではないのかな?

阿久根氏と役者たちにカメラを向けながら、あたまの中に普通のことしか浮かんでこなかった。

阿久根氏は、実行可能なテクニックとして〝倍音〟の出し方を説いた。

息を吐きながら声を出す。それだけでも印象的な声になるのだという。



話芸を教え込む背景には、洋画と邦画における違いもある。

アメリカ映画は、映像を観て何をしているかわかる。視覚に訴えかける。

対して日本映画は、言葉でのニュアンスで伝えている。

話芸があるからこその良さがあるのだという。



阿久根氏はレッスン生の前で繰り返し台本を読んでみせた。

生徒たちの台本は、阿久根氏の言葉なのか、受け取ったヒントなのか、それぞれに文字で染まっていった。

自分の伝えたまま、全てそのとおりに演技をするようには求めない。

「俺の言う通りの芝居じゃなくてもいいんですよ。でも、残ってほしい。」

阿久根氏の言葉、そして表現から何を感じとり、その人なりにどう監督の求める表現に近づけるか。その判断は相手にゆだねているように見えたし、待つ姿勢を感じた。



監督・脚本家として阿久根氏の描く答えのような芝居が役者から出たとき、その芝居見つめる目はとても輝いていて、うれしそうで、楽しそうだった。


『〇〇さんのセリフが僕の中に残っています。』芝居にOKを出すときに発せられるこの一言もまた、印象的だった。



ほめる時にもアドバイスをする時にも、阿久根氏は決して他の人と比べるようなことをしない。前回のその人と比べてどうか そういう伝え方で向き合っていた。



そうだよなぁ。全部が全部、そうだよなぁ。

阿久根氏の演技指導から、子育てに思いを巡らせた。

自分が投げかけた何かをどう吸収するかも、しないかも、相手の自由だ。

阿久根氏の、〝ぼくから何かを受け取ってくれて、もしそこに少しでも僕がいるのなら幸いです〟 というスタンス。

その姿を目の当たりにして、わたしは子供に何を求めているのだろうかと、多くを求め過ぎていることに気づかされた。

そもそも、自分の投げかけているものが子供にとって正しいかどうかもわからないのに。


脚本家・監督として、自分の作品を演じる役者に対して求める表現はあるだろう。

親は子供の人生の脚本家ではないし、子は自分の人生を好きに描いて生きていける。

わたしの小さな小さな価値観の中、子供の人生に欲を出した親を満足させるように生きないとならないのだろうか?

全然そんなことない。そんなことしなくていい。



じっくり待とう。

待って待って、

見守ろう。

子供たちが日々にどんな色付けをしていくのかを。



誰かと比べるような言い方も。それも一生しないでおこう。

他の誰かになってもらいたいだなんて思わないのだから。

他の誰でもなく、あなたがあなたでいてくれることが幸福なのだ。

自分がされて嫌なことはしない

子供に対してだって、そう。

子供からの愛情に胡坐をかいていたな という具合に、飛躍して考えさせられた。



阿久根氏は、北風と太陽なら、太陽のような人なのだろう。

レッスン生たちにとってもまた、特別な講師だ。

レッスンが終わっても生徒たちはすぐには帰らない。順番待ちでそれぞれが嬉しそうに阿久根氏と雑談をしていた。

慕われているのだなぁ その空間にいて温かい気持ちになった。



「本を読むだけのやつは外で失敗するし、外に出ない奴は目の前で起きたことに対処できないんですよ。現場で一度口から心臓が出そうなくらいの体験をしたほうがいい。」

「僕の現場が地方だったりする場合、その地方で手配された役者なのか、東京の役者なのかわからないようにしたいですね。」


相手のためのふりをした自分のため。ではなく阿久根氏が相手のために本気で向き合うから、想いは通じるのだろう。




「阿久根監督は、明日現場でいかせることを教えてくれますね。

役者としてだけでなく、自分のことを客観的に見られるきっかけにもなっていて、習うというよりも自信を持ちに来る感じでもあります。」

ワークショップについて、レッスン生達はそう話してくれた。




籠っていろいろ片付け中

明日から芝居のレッスンが始まります

レッスン生の方々とお会いしますが、一人でも、現場でしっかり台詞を渡せる、

がっつり活躍でいる役者さんが生まれることを、も―本当に本当に本当に望んでります。

                ―――Facebookより



そこが東京であれ福岡であれ、どこの土地であろうと、演技の出来る人がいればどこへでも発信できる。

その想いを形に変えていく姿が、役者にとっても希望となり、日本のエンターテイメントを豊かにしていくのだろう。

講師阿久根知昭から受け取った種がレッスン生たちの中でどのように花咲いていくのか、

誰よりも阿久根氏が一番楽しみにしているような、そんな気がした。



『分かりやすさは必要

分かりにくさも必要

気持ちが広がる余白は必要

想いが残るのは必要


僕はそうしたいだけ』

      ―――2020.1.24 阿久根知昭Facebookより

https://www.facebook.com/tomoaki.akune



認知症、病、残される者、愛する人を残していかなくてはならない者。


阿久根氏はデリケートなテーマを扱いながらもその表現は楽観的で観る者に希望を与える。

この楽観的な表現は、阿久根氏作品の魅力の大きなひとつである。


もしあなただったら。

どんな物語を描きますか?



阿久根氏がなぜ楽観的に表現するのか。その表現に込めた狙いを探りたい。


どんなにひどい状況になっても楽観的に表現する。

阿久根氏自身物書きとして、楽観的に表現できるように心掛けているのだという。

「こんなに辛いんですよね。じゃなくて、観て楽になるから何度も観れる。ずっと続くわけじゃないからがんばれ。というエールが送れたらいいなと思っています。」

ハッピーを広げることで観る人も見やすくなる。



デリケートなテーマを、ただ楽観的に表現するのではない。

辛い部分はしっかりと見せる。


それは、人によって辛いものが違うから、当てはまる人もいれば、当てはまらない人もいるから、観る人にわかるようにその心情を表現するのだという。

知らなくても想像することができる。

自分が経験したことならば共感できても、わからなければ共感できないのだろうか。

きっとそうではない。

知ろう・わかろうとする気持ちが人にはある。



今回は、映画作品への想い、そして、脚本家としての姿に密着した。

 


『20年後も30年後も観れる映画』

映画つくりにおける阿久根氏のポリシーだ。

キャスティングアプローチにこだわるのではなく、観た後に考えさせられる映画をつくりたいのだという。

答えのない映画はその後もずっと残るし考えさせられる。



答えの部分は削り、判断は相手にゆだねます。

そう話す阿久根氏の姿は、後に紹介する講師としての姿と重なった。ブレない。

「答えを出してしまうと、わたしはこういう考えです。どうだ! となってしまうんですよね。

わたしはこう思うんです!を出すよりもただ、淡々と見せたいです。

こっちが良いとか、そっちは悪いとか、ジャッジをしたいのではありませんから。

ただ見せる。何か感じとって各々考えてくれたら…。

もし、わたしと同じ気持ちならうれしいです。それくらいです。」と話した。



では、阿久根氏の作品のテーマはどのように決められているのだろうか。

基本的には、道徳的・啓蒙的といった、一過性のものよりも普遍性のものを基準にしているのだという。

創り出す作品には自身の娘への想いもあるのか尋ねた。

「娘に対して残してあげられるのも作品なのかな。いつか、こういうものだよ。と言える作品にしていたい。」と、父親の顔をのぞかせてくれた。

阿久根氏はわが子の話題になると、とてもあたたかい空気をまとう。

作品の中に阿久根氏はずっと生き続ける。


父親を感じられる作品は、宝物になるだろう。


〝誰かの人生で、その物語や言葉が宝物のようになれば良いな、と日頃考えております。

寂しい思いをしている人、生き辛いと思っている人にとって、大事な光になるような物語が残せればいいです。〟



 阿久根氏が作品の中に残るように、作品には自身の経験も投影されているのか尋ねた。

「作家は知っていて損なことはないですからね。」

どのような経験であっても、それをどのように受け取るか。どう学びとするか。

経験を取り入れ、誰に何を語っていくのか。

投影される過去の経験の中で、辛いとか寂しいった出来事はリアルになるという。

それは決して後ろ向きな意味ではない。

「当時はつらかったり、ごまかしてきた感情を、過去に出来たから出せるんですよね。」

誰かの経験を表現するにしても、阿久根氏は無理に痛みを描こうとはしない。本人がそれを過去に出来たときに描く。

今が良くなければ過去は語れない。

今が良いから過去を語れる。

解決したというより、誰かに伝えたいのだという。

そう語る阿久根氏だからこその楽観的な表現なのだと感じた。

〝今はつらくてもそれはちゃんと終わるよ。〟そういう思いがあるのだと語った。

悪者は描きたくない。ジャッジは出来ない。ただ、何を学びとするか。

それを伝えたい。



物語を書き始めたら、物語は自分の思うようになった。その時、光が見える予兆を感じた。

星で言ったら一等星二等星の人たちの物語ではなく、五等星六等星の目にも見えなくなっているような人たちの小さなシーン。

天体望遠鏡を持っていないと見えないくらいの光だけど、天体望遠鏡を持っていて、五等星六等星の放ったかすかな光を拾い上げていく人がいる。

そういう時、そこには何気ないけど実はとても大切な言葉があったりする。

元々、破滅型の作家なので、悲しい物語とかバッドエンドの物語を書くと、滅入ってしまうので書きたくないのだという。

目の前の阿久根氏は、大きくてあたたかな陽の空気をまとっている。

目に見える姿と、経験や乗り越えてきたものは、きっと、イコールではない。

悲しみや、心が苦しくなるような経験をしているからこそあたたかくて優しい人もいる。

知っているからこそ、そんな思いをもう他の誰にもしてもらいたくない

そういうことなのかもしれない、そう感じた。



「僕は、希望を書きたいんですよね。」

書きながらキャラが定着していったり、感情に揺られながら、成り行きに任せたら勝手に筆が動く。

そうやって、書いていく。



『水が合ったんですかねぇ』



なろうとして脚本家や映画監督になったのではない。

目の前のことに一心に向き合う中で、出会った人々や出来事に導かれて気が付いたら今に至った。

流されてきたのではなく、かじ取りは自らしてきた。

柔軟でいて、芯も軸も自分の中にある。

流れるように生きてきて、生きてきた道が作品に刻まれていく。そういう人なのかもしれない。



阿久根脚本のもうひとつの魅力に、作品から知識としての学びがあることも挙げられる。

ペコロスの母に会いに行くでのワンシーン


『おばーちゃん、どこ行きよーと?』

認知症の始まっているおばあちゃんが外にお酒を買いに出た。

出くわした孫が、おばーちゃんにどこに行くのか尋ねると、

「あの人が帰ってきたら飲むやろ思うて、酒屋に行きよる。」と答えが返ってきた。

『あの人って、じーちゃんの事言いよると?』

「そーたい」

『ばーちゃん、じーちゃんな、もうだいぶ前に死んどろーが』

「あ、いや・・・」

『仏壇に供える酒ば買いに行きよったとやろ?』

「…そーたい!」




じゃあ、家に帰ろう。


おばあちゃんに、〝それは違うよ〟とは言わない。

相手にも〝そうだよ〟と言わせておいて、わたしはボケてないというところに持っていって、相手を傷つけずに誘導する。

これは、認知症をわずらう人とのかかわりにおいてとても大切なことなのだという。

知っていればできるけど、知らなければできないかもしれないこと。

作品を通して学んだっていい。

知らなくても、阿久根氏作品には学びがある。



今回わたしはペコロスの母に会いに行くを、子供を育てる親としての立場で観た。

いつか、認知症の家族の立場として観る日が来るかもしれないし、

年を重ねて自分に起こりうる未来として観るかもしれない。

そのどの立場で観たとしても 光を見出すことのできるヒントがちりばめられているのだろう。

知るって、とても大切なことだ。

知っていたらできることがある。経験したから寄り添えることがある。

知らなくても、想像し、その立場に立つことはできる。



あなたなら、どの視点で、何を受け取りますか




「どんなに絶望が襲っても、見えてないだけで、希望はそこにあると信じているということです。

そんな物語を書きたいのです。」

そう話してくれた阿久根氏の表情はとても柔らかかった。



『22の頃の自分が何を描こうとしていたのか、ちょっと向き合ってみる

いつの時代の誰にでも届く、普遍へ行きつこうとしていたんだ…と思う。

色あせないものなんてないけど、色あせてこそ輝くものは何か

そんなものを模索していた

在りし日の目映き光 いま空に消ゆとも

草原の輝き 花の栄え 永遠に還る日はなくとも

嘆くまじ夢 我は見出さん その陰に潜める力を』

                ――2019.9.20 阿久根知昭Facebookより 

https://www.facebook.com/tomoaki.akune


身を切られるような激しい痛みを描いても
押しつぶされるような絶望を描いたとしても
ラストに光の兆しがあれば
まだ見えない希望が地下に眠っている予感さえあれば
人は何度もそのドラマを求める
繰り返して観られるドラマは、
まっすぐにそう作られている。
相変わらず、
そんなのばっか書いてる。

2016.11.24 阿久根知昭facebookより

https://www.facebook.com/tomoaki.akune




阿久根知昭【あくね ともあき】 

●日本の脚本家・映画監督・演出家

●脚本作品にペコロスの母に会いに行く

初監督作品にはなちゃんのみそ汁

●作家組合Write Staff Guild代表

●私生活では結婚し、一児の父



脚本を手掛けた映画『ペコロスの母に会いに行く』は2013年キネマ旬報ベスト・テン日本映画ベスト・ワン、新井晴彦発刊映画芸術にて一位を受賞。

現在は脚本家、映画監督としてだけではなく役者への演技指導や大学での講師、

作家組合ライトスタッフギルドの代表を務めるなど、マルチに活躍している。



認知症の母が自分の帰りを駐車場で待つ。毎日、毎日-。

ペコロスは、〝母が認知症だからどう〟とか、そういう事ではなく、目の前の母をそのままに受け入れる。

わたしがペコロスだったら。

ペコロスのように優しく母を包めるだろうか。



優しくて、あたたかい。

阿久根氏の作品に触れ、そう感じた。



ペコロスの母に会いに行くは、認知症の母と息子との日々を、それぞれの視点から描いた作品となっている。

ペコロスは深い愛を受けて育ったのではないだろうか。

ペコロスの息子もまた、ペコロスから大きな愛を受けて育ったのではないか。



監督作品であるはなちゃんのみそ汁もまた、母と娘、親子や家族としての土台がしっかりしているからこその作品なのではないかと感じた。

土台があるから立っていられる。



いまの子供との日々は、わが子だけではなく、わが子の子供、そのまた子供へと後世に渡って良くも悪くも影響していく。

子育てがとても怖い。



阿久根知昭氏は、どんな人だからこんなに優しい表現になるのだろう。

優しさや愛情を一心に受けて育ったのではないだろうか。



わたしは子どもたちをそうやって育てられているのだろうか。

わたしが子育てを間違えてしまったら、子どもたちは幸せを描きにくくなってしまうのだろうか。

子どもと向き合うことは、自分に対しても本気で向き合わなくてはならないことなのだと気づいた。途方もないくらいに。


子どもたちに幸せの種をまきたい。

阿久根氏に興味を惹かれたのは、このような思いがきっかけだった。



優しい作品をつくり出す阿久根知昭氏を知りたい

目に見える阿久根知昭だけではなく、

阿久根知昭氏を創り出してきた細胞のような、阿久根知昭も見たい。

何に突き動かされ、何に夢中になり、何に心をかき乱されるのか。

喜怒哀楽、そして生き様をカメラにおさめたい。

こうして、密着は始まった。



10月末

阿久根氏の活動の拠点である福岡の地で初めて対面した。

「映画は、写真の延長なんですよ。」

映画は一秒24コマ。24枚撮りのフィルムが繋がったものなのだと話してくれた。

どの瞬間を切り取っても写真になる。それが映画。

写真を生業にするわたしがこのインタビューに入りやすいよう、この言葉をはじめにくれたのだろう。

阿久根氏は、言葉の中にヒントのようなものを残してくれる。

初めに感じたこの印象は、3回の取材を終えた今、確信に変わった。



取材が始まると、阿久根氏から発せられる言葉たちは、親としての悩みへのヒントや、人とのかかわりにおける学びがあった。


阿久根氏から出る言葉はとてもリアルだ。

発せられる言葉からは映像が浮かんでくる。

リアルでいて、くるくる変わる表情に話術に、エンターテイメントを見ているようだった。

勝手に想像していた阿久根知昭という人物とは違った。違ったからこそ希望が見えた。


自らをホン屋と呼ぶ彼はいきなり大きな光を見つけたわけではない。

少しずつ小さな光を集めてきた。

光を紡ぐ脚本家は、光を見つけ、前に進むことを体現している。




いまはまだ、はっきりとはそれが何なのかわからないが、阿久根氏を通じて光のような希望のようなものを感じる。

阿久根氏がそうであるように、わたしも、迷ったり悩んでも、立ち上がって前に進むことを選べる母親でありたい。


脚本家であり演出家であり、監督であり、講師であり、父でもある、そんな阿久根氏の様々な姿を残したい。

誰かにとっての希望になることを願って。