脚本家編
『分かりやすさは必要
分かりにくさも必要
気持ちが広がる余白は必要
想いが残るのは必要
僕はそうしたいだけ』
―――2020.1.24 阿久根知昭Facebookより
https://www.facebook.com/tomoaki.akune
認知症、病、残される者、愛する人を残していかなくてはならない者。
阿久根氏はデリケートなテーマを扱いながらもその表現は楽観的で観る者に希望を与える。
この楽観的な表現は、阿久根氏作品の魅力の大きなひとつである。
もしあなただったら。
どんな物語を描きますか?
阿久根氏がなぜ楽観的に表現するのか。その表現に込めた狙いを探りたい。
どんなにひどい状況になっても楽観的に表現する。
阿久根氏自身物書きとして、楽観的に表現できるように心掛けているのだという。
「こんなに辛いんですよね。じゃなくて、観て楽になるから何度も観れる。ずっと続くわけじゃないからがんばれ。というエールが送れたらいいなと思っています。」
ハッピーを広げることで観る人も見やすくなる。
デリケートなテーマを、ただ楽観的に表現するのではない。
辛い部分はしっかりと見せる。
それは、人によって辛いものが違うから、当てはまる人もいれば、当てはまらない人もいるから、観る人にわかるようにその心情を表現するのだという。
知らなくても想像することができる。
自分が経験したことならば共感できても、わからなければ共感できないのだろうか。
きっとそうではない。
知ろう・わかろうとする気持ちが人にはある。
今回は、映画作品への想い、そして、脚本家としての姿に密着した。
『20年後も30年後も観れる映画』
映画つくりにおける阿久根氏のポリシーだ。
キャスティングアプローチにこだわるのではなく、観た後に考えさせられる映画をつくりたいのだという。
答えのない映画はその後もずっと残るし考えさせられる。
答えの部分は削り、判断は相手にゆだねます。
そう話す阿久根氏の姿は、後に紹介する講師としての姿と重なった。ブレない。
「答えを出してしまうと、わたしはこういう考えです。どうだ! となってしまうんですよね。
わたしはこう思うんです!を出すよりもただ、淡々と見せたいです。
こっちが良いとか、そっちは悪いとか、ジャッジをしたいのではありませんから。
ただ見せる。何か感じとって各々考えてくれたら…。
もし、わたしと同じ気持ちならうれしいです。それくらいです。」と話した。
では、阿久根氏の作品のテーマはどのように決められているのだろうか。
基本的には、道徳的・啓蒙的といった、一過性のものよりも普遍性のものを基準にしているのだという。
創り出す作品には自身の娘への想いもあるのか尋ねた。
「娘に対して残してあげられるのも作品なのかな。いつか、こういうものだよ。と言える作品にしていたい。」と、父親の顔をのぞかせてくれた。
阿久根氏はわが子の話題になると、とてもあたたかい空気をまとう。
作品の中に阿久根氏はずっと生き続ける。
父親を感じられる作品は、宝物になるだろう。
〝誰かの人生で、その物語や言葉が宝物のようになれば良いな、と日頃考えております。
寂しい思いをしている人、生き辛いと思っている人にとって、大事な光になるような物語が残せればいいです。〟
阿久根氏が作品の中に残るように、作品には自身の経験も投影されているのか尋ねた。
「作家は知っていて損なことはないですからね。」
どのような経験であっても、それをどのように受け取るか。どう学びとするか。
経験を取り入れ、誰に何を語っていくのか。
投影される過去の経験の中で、辛いとか寂しいった出来事はリアルになるという。
それは決して後ろ向きな意味ではない。
「当時はつらかったり、ごまかしてきた感情を、過去に出来たから出せるんですよね。」
誰かの経験を表現するにしても、阿久根氏は無理に痛みを描こうとはしない。本人がそれを過去に出来たときに描く。
今が良くなければ過去は語れない。
今が良いから過去を語れる。
解決したというより、誰かに伝えたいのだという。
そう語る阿久根氏だからこその楽観的な表現なのだと感じた。
〝今はつらくてもそれはちゃんと終わるよ。〟そういう思いがあるのだと語った。
悪者は描きたくない。ジャッジは出来ない。ただ、何を学びとするか。
それを伝えたい。
物語を書き始めたら、物語は自分の思うようになった。その時、光が見える予兆を感じた。
星で言ったら一等星二等星の人たちの物語ではなく、五等星六等星の目にも見えなくなっているような人たちの小さなシーン。
天体望遠鏡を持っていないと見えないくらいの光だけど、天体望遠鏡を持っていて、五等星六等星の放ったかすかな光を拾い上げていく人がいる。
そういう時、そこには何気ないけど実はとても大切な言葉があったりする。
元々、破滅型の作家なので、悲しい物語とかバッドエンドの物語を書くと、滅入ってしまうので書きたくないのだという。
目の前の阿久根氏は、大きくてあたたかな陽の空気をまとっている。
目に見える姿と、経験や乗り越えてきたものは、きっと、イコールではない。
悲しみや、心が苦しくなるような経験をしているからこそあたたかくて優しい人もいる。
知っているからこそ、そんな思いをもう他の誰にもしてもらいたくない
そういうことなのかもしれない、そう感じた。
「僕は、希望を書きたいんですよね。」
書きながらキャラが定着していったり、感情に揺られながら、成り行きに任せたら勝手に筆が動く。
そうやって、書いていく。
『水が合ったんですかねぇ』
なろうとして脚本家や映画監督になったのではない。
目の前のことに一心に向き合う中で、出会った人々や出来事に導かれて気が付いたら今に至った。
流されてきたのではなく、かじ取りは自らしてきた。
柔軟でいて、芯も軸も自分の中にある。
流れるように生きてきて、生きてきた道が作品に刻まれていく。そういう人なのかもしれない。
阿久根脚本のもうひとつの魅力に、作品から知識としての学びがあることも挙げられる。
ペコロスの母に会いに行くでのワンシーン
『おばーちゃん、どこ行きよーと?』
認知症の始まっているおばあちゃんが外にお酒を買いに出た。
出くわした孫が、おばーちゃんにどこに行くのか尋ねると、
「あの人が帰ってきたら飲むやろ思うて、酒屋に行きよる。」と答えが返ってきた。
『あの人って、じーちゃんの事言いよると?』
「そーたい」
『ばーちゃん、じーちゃんな、もうだいぶ前に死んどろーが』
「あ、いや・・・」
『仏壇に供える酒ば買いに行きよったとやろ?』
「…そーたい!」
じゃあ、家に帰ろう。
おばあちゃんに、〝それは違うよ〟とは言わない。
相手にも〝そうだよ〟と言わせておいて、わたしはボケてないというところに持っていって、相手を傷つけずに誘導する。
これは、認知症をわずらう人とのかかわりにおいてとても大切なことなのだという。
知っていればできるけど、知らなければできないかもしれないこと。
作品を通して学んだっていい。
知らなくても、阿久根氏作品には学びがある。
今回わたしはペコロスの母に会いに行くを、子供を育てる親としての立場で観た。
いつか、認知症の家族の立場として観る日が来るかもしれないし、
年を重ねて自分に起こりうる未来として観るかもしれない。
そのどの立場で観たとしても 光を見出すことのできるヒントがちりばめられているのだろう。
知るって、とても大切なことだ。
知っていたらできることがある。経験したから寄り添えることがある。
知らなくても、想像し、その立場に立つことはできる。
あなたなら、どの視点で、何を受け取りますか
「どんなに絶望が襲っても、見えてないだけで、希望はそこにあると信じているということです。
そんな物語を書きたいのです。」
そう話してくれた阿久根氏の表情はとても柔らかかった。
『22の頃の自分が何を描こうとしていたのか、ちょっと向き合ってみる
いつの時代の誰にでも届く、普遍へ行きつこうとしていたんだ…と思う。
色あせないものなんてないけど、色あせてこそ輝くものは何か
そんなものを模索していた
在りし日の目映き光 いま空に消ゆとも
草原の輝き 花の栄え 永遠に還る日はなくとも
嘆くまじ夢 我は見出さん その陰に潜める力を』
――2019.9.20 阿久根知昭Facebookより
https://www.facebook.com/tomoaki.akune
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