種をうえる

芝居ができる人が欲しい。

演技がうまい人じゃなくて

演じる技術はどうでもよくて、人が金出したくなる芝居ができる人を求めています。

芝の上に居て見ている人たちに向けて、表現を発信できる人がいるの。

(中略)

金払ってまで見たいと思える[芝居]が欲しいのです。

人に「上手ね」と言われるより「感動した」と言われる芝居ができる人が欲しい。

―――2020.9.14 Facebookより

http://www.facebook.com/tomoaki.akune




阿久根氏は脚本家、演出家、映画監督としてだけではなく役者の育成にも力を注いでいる。



自分の演出を、脚本を、超えてほしい。

役者が良い本に出会う確率なんて低い、と冗談っぽく笑った。



良い本との出会いを待つよりも、出来ることがある。

阿久根氏もまた、理想とする役者との出会いを待つだけではなく、育てようとしているのだ。



「客はセリフをきっちり聞きたいわけではないんです。芝居を感じたいんですよね。」


セリフは芝居の上にのっかったものであり、伝えたいことのすべてが台本になっているわけではないのだという。

一行におさめられたセリフは、本当はもっと長いものであったかもしれない。

言葉の削られた部分、その一行の奥にあるものを芝居で表現してもらいたい。

書いてある以上のことを表現して役者の力になる。



他の人にできることは出来て当たり前。

それプラスαあなたには何ができますか?

役者にそれを問い掛けている。




今回は講師としての阿久根知昭氏に密着した。

ある日のワークショップ、阿久根氏が演技指導をする中でもっともこだわっていたのは裏芝居の表現だった。  


本読みを進める中で、心の奥底にある思いを芝居でいかに伝えるか、言葉の強弱や、セリフを落とす位置からくる高低。喋りの緩急と間の置き方、などのポイントから役者たちに説いた。

たとえば『だからお前は』というこのセリフ。

語頭に力を入れた場合には〝怒っているけど怒りを抑えようとしている表現〟になり、

語尾を消す言い方をすることで〝うんざりしている表現〟になるのだという。



本音を隠そうとするセリフであれば、台本の活字をそのまま読んだのでは伝わらない。

確かにそうだ。芝居を観ていて、あぁ!本音じゃないのになぁ と、もどかしく感じられるのは、役者の芝居ありきだ。



「名台詞だからって、そこに圧なんてかけなくてもいいんです。いいセリフはその必要がないですからね。」



重要なセリフほどその前にくる言葉が実は大事で、まず注目を集め、そのあとに本当に伝えたいことを持ってきたりするのだと脚本家目線でも説いていた。

圧を抜いたほうが残るときもあるのだという。



本読みでの表現をいくつかのポイントから説くのと同時に、〝なぜか心に残る声〟 と聞いたらどのような声をイメージするだろうか?そう、役者たちに問い掛けた。


〝なぜか心に残る声・・。〟持って生まれたものではないのかな?

阿久根氏と役者たちにカメラを向けながら、あたまの中に普通のことしか浮かんでこなかった。

阿久根氏は、実行可能なテクニックとして〝倍音〟の出し方を説いた。

息を吐きながら声を出す。それだけでも印象的な声になるのだという。



話芸を教え込む背景には、洋画と邦画における違いもある。

アメリカ映画は、映像を観て何をしているかわかる。視覚に訴えかける。

対して日本映画は、言葉でのニュアンスで伝えている。

話芸があるからこその良さがあるのだという。



阿久根氏はレッスン生の前で繰り返し台本を読んでみせた。

生徒たちの台本は、阿久根氏の言葉なのか、受け取ったヒントなのか、それぞれに文字で染まっていった。

自分の伝えたまま、全てそのとおりに演技をするようには求めない。

「俺の言う通りの芝居じゃなくてもいいんですよ。でも、残ってほしい。」

阿久根氏の言葉、そして表現から何を感じとり、その人なりにどう監督の求める表現に近づけるか。その判断は相手にゆだねているように見えたし、待つ姿勢を感じた。



監督・脚本家として阿久根氏の描く答えのような芝居が役者から出たとき、その芝居見つめる目はとても輝いていて、うれしそうで、楽しそうだった。


『〇〇さんのセリフが僕の中に残っています。』芝居にOKを出すときに発せられるこの一言もまた、印象的だった。



ほめる時にもアドバイスをする時にも、阿久根氏は決して他の人と比べるようなことをしない。前回のその人と比べてどうか そういう伝え方で向き合っていた。



そうだよなぁ。全部が全部、そうだよなぁ。

阿久根氏の演技指導から、子育てに思いを巡らせた。

自分が投げかけた何かをどう吸収するかも、しないかも、相手の自由だ。

阿久根氏の、〝ぼくから何かを受け取ってくれて、もしそこに少しでも僕がいるのなら幸いです〟 というスタンス。

その姿を目の当たりにして、わたしは子供に何を求めているのだろうかと、多くを求め過ぎていることに気づかされた。

そもそも、自分の投げかけているものが子供にとって正しいかどうかもわからないのに。


脚本家・監督として、自分の作品を演じる役者に対して求める表現はあるだろう。

親は子供の人生の脚本家ではないし、子は自分の人生を好きに描いて生きていける。

わたしの小さな小さな価値観の中、子供の人生に欲を出した親を満足させるように生きないとならないのだろうか?

全然そんなことない。そんなことしなくていい。



じっくり待とう。

待って待って、

見守ろう。

子供たちが日々にどんな色付けをしていくのかを。



誰かと比べるような言い方も。それも一生しないでおこう。

他の誰かになってもらいたいだなんて思わないのだから。

他の誰でもなく、あなたがあなたでいてくれることが幸福なのだ。

自分がされて嫌なことはしない

子供に対してだって、そう。

子供からの愛情に胡坐をかいていたな という具合に、飛躍して考えさせられた。



阿久根氏は、北風と太陽なら、太陽のような人なのだろう。

レッスン生たちにとってもまた、特別な講師だ。

レッスンが終わっても生徒たちはすぐには帰らない。順番待ちでそれぞれが嬉しそうに阿久根氏と雑談をしていた。

慕われているのだなぁ その空間にいて温かい気持ちになった。



「本を読むだけのやつは外で失敗するし、外に出ない奴は目の前で起きたことに対処できないんですよ。現場で一度口から心臓が出そうなくらいの体験をしたほうがいい。」

「僕の現場が地方だったりする場合、その地方で手配された役者なのか、東京の役者なのかわからないようにしたいですね。」


相手のためのふりをした自分のため。ではなく阿久根氏が相手のために本気で向き合うから、想いは通じるのだろう。




「阿久根監督は、明日現場でいかせることを教えてくれますね。

役者としてだけでなく、自分のことを客観的に見られるきっかけにもなっていて、習うというよりも自信を持ちに来る感じでもあります。」

ワークショップについて、レッスン生達はそう話してくれた。




籠っていろいろ片付け中

明日から芝居のレッスンが始まります

レッスン生の方々とお会いしますが、一人でも、現場でしっかり台詞を渡せる、

がっつり活躍でいる役者さんが生まれることを、も―本当に本当に本当に望んでります。

                ―――Facebookより



そこが東京であれ福岡であれ、どこの土地であろうと、演技の出来る人がいればどこへでも発信できる。

その想いを形に変えていく姿が、役者にとっても希望となり、日本のエンターテイメントを豊かにしていくのだろう。

講師阿久根知昭から受け取った種がレッスン生たちの中でどのように花咲いていくのか、

誰よりも阿久根氏が一番楽しみにしているような、そんな気がした。

The Life of AKUNE TOMOAKI

脚本家・演出家・映画監督など、マルチな才能で活躍する阿久根知昭氏に密着。 https://www.facebook.com/tomoaki.akune

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